思うに、「運気の流れ」に依存する前に、まずは次のことを自問する必要があるようです。
運気という言葉を、無意識に使う人は多いでしょう。
「運気が味方した」
「運気に見放された」
「運気が悪い」
などなど
「運気」をあたかも自分と別の次元で、気ままに人の人生に影響を与えるものと考えている人が多いのではないかと思います。あるいは「気ままな神様のいたずら」のように感じている人も多いでしょう。
また「運気」と「運命」を混同している人もたくさんいます。
「運命」とはあらかじめ決められたものではなく、自分の決断と行動によって決定されます。
「今年、〇〇大学に合格した」ということは、今年、受験があったということです。来年の受験であれば、当然友達も変わってきますし、教えてくれる先生だって変わりますから、当然、未来は変化します。
同じように、もし学校そのものが別であれば、やはり、そこから始まる人生は違うものになるでしょう。
わかりやすく言うと、運命とはこういうものです。
これに対して、「運気」というのは、この宇宙を生成し、地球を作り、季節の変化や生命を作った、何か想像を超えた気(宗教的には神)が人間に影響を及ぼしている部分です。
気はエネルギーですから、必ず周期性と法則をもちます。エネルギーが周期性と法則性を持つことは物理的に真実です。
東洋の運命学はそこに着目し、この気の周期的な流れのことを「運気」と名付けたのです。
ちなみに法則というのは、人種・国境を越えて誰にでもあてはまるものです。
信じていようが、いまいが関係なく影響をうけます。
したがって、「大統領の来年の運気」を占うことだってできます。
さて、運気を語る前にお話したいことがあります。
人々の中には、人生における幸不幸、喜怒哀楽の原因を全て「運気の流れ」に結び付けて考える人も少なくはありません。
しかし、私が思うに、「運気の流れ」に依存する前に、まずは次のことを自問する必要があるようです。
我々はよく「因果応報」という言葉を用いますね。
自分の言動や考え方から生じた現象もしくは結果が、巡り巡って自分に返ってくる、というものですが、もしも、自分の人生が思い通りに行かなくなった、或いは途中から捻じ曲がってしまったと感じるのであれば、一端気持ちを落ち着けて、これまでの自分の振る舞いや言動、想念に問題が無かったかを振り返ってみることが大切ではないでしょうか。
自分の目的が不純なものではなかったか、自分勝手な思い込みで周囲を振り回さなかったか、目的を定めてもそれを実行するだけの努力が足りなかったのではないか、何事も打算で物事を決め、自分の気持ちに正直ではなかったのではないか、そもそも自分は本当にそのような道に進みたかったのか、等々。
過去を厳しく振り返るのは辛く苦しいことですが、自分の撒いた種は自分で刈り取らなくてはならないのです。
「因果応報」とは、本来そういうことを表す言葉なのではないでしょうか。
そして、本当の意味で反省し、純粋な精神を取り戻して再出発を図ることができれば、多くの問題は、意外と整理できるものです。
事実、気持ちや価値観を転換した途端に明るい気持ちを取り戻し、再び日常の世界で頑張る気力をみなぎらせる人たちが多いのも事実です。
私が言うのもなんですが、占いも良いですが、それ以前に、やはり人間、心が純粋であることが何より大切ですよね。
私がこれまで出会ってきた人をみますと、占い以前に人間としての誠実さや努力が足りない人が多いようです。
そういう人たちが、たとえば占いによって人生を思い通りにできたら、それこそこの世は地獄になります。
神様がいるかどうかは会ったことがないのでわかりませんが、私が神様なら人間として努力もしていない人を助けようなんて気にはなれませんね。
しかし、このように自分で自分を振り返った後、精神面で過去の自分に決定的な問題があったとは思えない、自分は善良であった、全身全霊を込めて頑張ったと確信できる場合、それではどこに問題があったのか、なぜ自分の純粋な希望が通らなかったのか、ということになってきます。
ここにきてようやく、宿命学、気学、行動学に出番が回ってきます。
即ち、人間が醸し出す気の波動である「運気の流れ」の登場となるのです。
